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茅ヶ崎市博物館の楽しみ方

茅ヶ崎市博物館では、茅ヶ崎の大地を「海」、「砂丘」、「川」、「低地」、「丘陵」の5つの地形に分け、それぞれの地形の特徴ごとに、どのような自然が広がり、人々がどのようなくらしを営み、文化を育んできたかを17のテーマに分けて紐解きます。展示室内には「ユニット」と呼ばれる展示台が8つあり、17のテーマを定期的に入れ替え、訪れるたびに新しい発見ができる博物館を目指しています。
※各テーマ(海、砂丘、川、低地、丘陵)をクリックすると、テーマ別展示物を閲覧できます。 海 砂丘 川 低地 丘陵

テーマ別展示物閲覧

海へのいのり
展示期間:6月~9月
マイワイ
大山詣りのお土産
ホンダワラの仲間
ハマゴウ

多くの生命を育む海は、我々に限りない恩恵を与えてくれます。相模湾に面する茅ヶ崎の自然環境やくらしは、いつの時代も海と深くかかわってきました。人が活動を始めた頃から行われている漁は、大切なくらしの糧の一つでした。しかしながら、漁は不安定で、時に生命の危険を伴うものでもありました。茅ヶ崎では、人びとは海の恵みに感謝しつつ、時として脅威となる海に抗うのではなく、畏敬の念を抱き、共生する知恵や文化を培ってきました。

えぼし岩とよばれて
展示期間:10月~2月
イセエビ液浸標本
絵葉書 えぼし岩の鳥居
ハナマルユキ
ヒジキ

茅ヶ崎漁港から南東約1.6kmのところに、姥島群島という岩礁があります。なかでも一番目立つ岩は、公家や武士、神官が被った帽子の一種である「烏帽子」に似ていることから、「えぼし岩」と呼ばれ親しまれています。姥ケ島、尾根島、筆岩とも呼ばれていました。島やその周囲には、多くの生きものがみられます。また、古くは旅人の目印となったり、近年は茅ヶ崎のシンボル的存在になっています。
昔から茅ヶ崎に暮らす人びとのそばにあり、いまでも身近な存在です。 

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chevron_right 海岸に打ち上がった貝類
縄文の海
展示期間:3月~5月
深鉢
牙玉
魚骨・海獣骨
石斧(復元)

人類の歴史の中で最も地球が温暖になった縄文時代には、海面が上昇し、市北部の下寺尾や赤羽根のあたりまで海が広がっていました。このあたりでは当時の貝塚や竪穴住居があったことがわかっており、人びとが狩猟や採集を行い、定住していたことがうかがえます。当時、波打ち際に近かった市北部は、縄文人にとっても過ごしやすかったようです。このあたりの人びとは、どのようなものを採って、どのような生活をしていたのか、発見された数多くの縄文時代の遺跡が時を超えて教えてくれます。

海に魅せられて
通年
ステンドグラス
松籟荘模型
南湖院外来受診規定
絵葉書 南湖院

明治31年(1898)、茅ケ崎駅が開業すると、次第に近代化の波が押し寄せてきました。当時の茅ヶ崎について、国木田独歩は「松と麦と桑と甘藷の外、眼を慰むるものなし」と表現していますが、やがて茅ヶ崎の過ごしやすい気候を求めて、多くの別荘が建てられていきます。また、南湖に、結核療養所(サナトリウム)として南湖院が開設されたことで、周辺に旅館や商店も増えはじめ、市域の南部に賑わいをもたらしました。近代の茅ヶ崎は、別荘地や療養地としてその歩みを始めたのです。

砂丘

東海道歴史さんぽ
展示期間:10月~2月
浮世絵 初代歌川広重「五十三次名所図会 藤沢 南湖の松原 左り不二」
浮世絵 二代歌川広重「御上洛東海道 平塚」
高札
灰釉陶器 片口鉢

関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)、徳川家康は宿駅伝馬制度を定め、日本橋(江戸)から三条大橋(京)間に宿場を設置し、東海道五十三次が成立しました。江戸幕府は、慶長9年(1604)から街道の整備に取りかかり、並木を植えたり一里塚をつくったりするよう命じました。
茅ヶ崎は、藤沢宿と平塚宿の間にあり、間の宿と呼ばれました。当時の様子は江戸時代の文献や市内の神社に残されている幕末期の絵図にも描かれており、また、絵図に描かれた場所からは遺物も発掘されています。

低地に生きた人々
展示期間:3月~5月
深鉢(縄文時代)
甕(弥生時代)
金環(古墳時代)
シャープゲンゴロウモドキ

市南部は、縄文時代の地球温暖化で一度海に沈みました。その後地球が冷えていく過程で海岸線が南下し、次第に新たな陸地が砂や砂まじりの土となって広がっていくと、縄文時代の終わり頃から、人びとの活動範囲もだんだんと市北部の丘陵から市南部の低地へと広がっていきました。
また、低地では、地下水が豊富であるなどの特有の土中環境により、まれに昔の木や紙、虫などが見つかります。茅ヶ崎の低地は、歴史解明の新たな可能性に満ちた場所なのです。

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chevron_right 木簡レプリカ(本村居村3号木簡)
chevron_right 木簡レプリカ(本村居村4号木簡)
砂を防ぐ
展示期間:6月~9月
ハマボウフウ
クロマツ
キアゲハ
ヒガシキリギリス

茅ヶ崎の海岸は主に相模川からの流出土砂が堆積して形成された砂浜海岸で、相模湾に面して約6kmに渡り海岸線が広がっています。
近年、海岸侵食により砂浜が後退しており、養浜などの対策がなされています。また、海岸地帯の住宅や道路に多くの被害をもたらす海からの潮風や飛砂を防ぐため、砂防林が整備されています。
この砂防林のほか、海岸では、砂地、草地といった複数の環境が存在し、それぞれに適応した生きものが生息しています。

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chevron_right ヒガシキリギリス(乾燥標本)

川辺を観察してみよう
展示期間:通年
ヤナギダテ
モクズガニ
ギンヤンマ
カワセミ

茅ヶ崎市内には相模川、小出川、駒寄川、千ノ川、松尾川、小糸川などの河川が流れています。雨は地表面や地中を通りながら集まり、やがて川となります。川は田畑を潤し、まちなかを通り抜け、海へと流れ出ます。ひとくちに河川といっても、河川の規模や場所によって様々な特徴があります。そうした多様な環境に合わせ、多くの動植物が見られます。市内を流れる河川のうち、小出川とそこに合流する駒寄川・千ノ川の川辺や、相模川河口に生息する生きものを観察してみましょう。

つながる水の道
展示期間:10月~2月
押送船模型
不動尊像
馬入川鉄橋のレンガ
初代歌川広重(背景画)・三代歌川豊国(人物画)「双筆五十三次 平塚」

相模川は、古くから相模国の南北を繋ぐ水上輸送に利用される一方、橋が架けられていなかったため、東海道を往来する旅人の障害でもありました。相模川の流れは大雨などにより大きく変化し、流域に大きな影響を与えました。近世には馬入川(相模川河口域の名称)の川筋を利用し、廻船輸送の拠点となる湊が柳島村(現・柳島)と須賀村(現・平塚市須賀)にできました。近代になると、建築資材として有用な砂利が相模川で採取されはじめ、運搬は相模鉄道(現・JR相模線)で行われるようになりました。

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chevron_right 繭秤
chevron_right 数取り
chevron_right 矢立

低地

田舟のあった風景
展示期間:3月~5月
タゲリ
トンボ
ミゾソバ
タブネ(田舟)

田畑は、作物を生産する場所として、人びとに恵みを与えてくれるだけではなく、いろいろな生きものを育む環境にもなっています。また、のどかに見える田園風景ですが、洪水をはじめとした自然災害とは常に隣り合わせでした。一年中沼のような湿田が多かった茅ヶ崎での農作業は、ひときわ苦労も多かったことでしょう。人力のみで田畑を耕していた人びとの生活は農作業を中心に一日一年のリズムがつくられ、豊かな実りへの切実な願いが様々な行事に込められました。

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chevron_right 田舟
繭と糸で産業を
展示期間:6月~9月
給桑台
ザグリ
桑つみカゴ
藍染男物半天

茅ヶ崎の養蚕業は、明治時代の終わりから次第に盛んになりました。大正6年(1917)に茅ケ崎駅と国道1号の間、現在の新栄町に製糸工場の純水館が操業を始めました。純水館製の生糸は品質が良く、輸出先のアメリカでは高級品として扱われました。純水館の発展に伴い、大正時代中期から後期にかけて茅ヶ崎の養蚕は最盛期を迎えました。農家は養蚕組合を結成し、飼育や取引を共同で行いました。養蚕は農家にとっての貴重な現金収入源となり、その成功を祈願する信仰も生まれました。

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chevron_right ザグリ
chevron_right カイコの成長(液浸標本・乾燥標本)
まちなかの自然
展示期間:10月~5月
シンテッポウユリ
アオダイショウ
クマゼミ
シジュウカラ

都市や住宅地のようなまちなかにも、よく見てみるといろいろな生きものが生息・生育しています。公園などのある程度のまとまりを持った緑地は自然環境がみられる貴重な場所ですが、それ以外にも人が緑化のために植えた樹木などにも多くの生きものが生息しています。たとえば、樹液の出ている木にはそれを好む昆虫が集まります。また、草むらにはバッタの仲間が見られます。そして、それらの昆虫を餌とする野鳥もやってきます。人が作ったまちなかの環境に適応しているのです。

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地震で現れた橋
展示期間:6月~9月
旧相模川橋梁模型
かすがい
開元通宝
浮世絵 歌川広重「東海道五十三対 平塚」

旧相模川橋脚は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、当時の水田に橋杭が出現したという全国的にも珍しい遺跡です。歴史学者・沼田頼輔によって鎌倉時代の建久9年(1198)に源頼朝の家臣・稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋と考証され、大正15年(1926)に国の史跡に指定されました。また、橋脚の出現状況が関東大震災の地震による液状化現象をよく示していることから、平成25年(2013)にはあらたに国の天然記念物に指定されました。

丘陵

茅ばあさんの一生
展示期間:3月~5月
カマ
メンツウ
食初めの膳椀
ササラ

昭和の初め頃まで、一日・一年のくらしの流れは決まっており、季節ごと、あるいは農作業や漁の節目に、日常とは異なった、祭りや行事を行う特別な機会が設けられていました。また、人がこの世に生を受けてから一生を送る間に、誕生・成人・結婚、そして死といった節目があり、その都度儀礼が行われていました。かつての茅ヶ崎の一日・一年のくらしの流れ、さらに、当時の人の一生を「茅ばあさん」という明治時代に生まれた架空の女性の視点から覗いてみます。

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chevron_right クケダイ
谷にくらす動植物
展示期間:6月~9月
キジ
フクロウ
リョウメンシダ
オニヤンマ

谷戸は、谷津、谷地ともいわれ、丘陵地が雨水や湧水などの侵食により谷が形成された地形を表し、斜面林と低地により成り立っています。また、雑木林や、谷戸地形を利用した水田や畑のほか、水路や湿地、草地などがあり、いわゆる里山と呼ばれる風景が広がっています。湧水に恵まれた谷戸の環境は、多様な動植物の生息・生育の場となっており、谷戸固有の豊かな生態系が育まれています。
茅ヶ崎市では北部丘陵に谷戸地形が見られ、「谷」と表記して「やと」と読みます。

むかしのいのり
展示期間:10月~2月
石棒
勾玉
墨書土器
庚申講の掛け軸

私たちの祖先は、現代人には理解しきれない様々な道具を生み出してきました。
その多くは、当時の人びとの精神や考えをもとに作られたもののはずです。もし、それらの意味が絵画や文章で説明されていれば、その用途を想像することができるでしょう。しかし、一見必要がなさそうなそうした道具の使い方は、いまだに謎が多いままです。この茅ヶ崎でも、生きるための道具以外の、いわゆるいのりのための道具がたくさん見つかっています。かつての人びとのいのりの心にふれてみてください。

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chevron_right 庚申講の講用具
下寺尾に眠る遺跡
通年
深鉢(縄文時代)
壺(弥生時代)
軒丸瓦
「具」墨書土器

市北西部の下寺尾は、複数の時代の遺跡が重なる場所です。この地では、縄文時代には貝塚が作られました。弥生時代になると、大規模な環濠集落が営まれます(国指定史跡下寺尾西方遺跡)。さらに、飛鳥・奈良・平安時代には、相模国高座郡の中心となる役所や寺院、交通の要所となる船着き場や祭祀場がありました(国指定史跡下寺尾官衙遺跡群)。そして現代では、昭和38年(1963)には県立茅ケ崎北陵高校が設置されるなど、様々な時代に人々が集まる空間となっていました。

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